ありふれた人
20代の頃に知り合った知人は定職に就かず、かと言って壮大な夢があるわけでもなさそうで、日々を気ままに漫然と過ごしていた。
楽器が趣味で、恐らくそれで将来生計を立てたいのだろうけど、かといってがむしゃらに音楽活動をするわけでもなかった。
ギャンブルや酒や女。本当にその時に好きな事に金を使って暮らしていた。
当然、多額の借金に塗れていた。
今を楽しく暮らす。
それを続ける。
別にいつ死んだって構わない。
人生に希望を見いださない若者が吐く定型文を、だらしのない肉体に着せ生きていた。
30代を半ば過ぎても彼の生活は変わらず、老いた分だけ救いはなくなっていった。
相変わらず同じ服だった。
やがて彼の幼い精神を宿す自堕落な肉体は病に冒された。
彼は分かってなかった。
刹那的な快楽主義の毎日は、突然の死を以て終わりを迎えるわけじゃないことに。
死への助走が始まった。
自らが選んで何も積上げてこなかった癖に、それを望んでいたはずなのに、彼は病と闘おうとしてしまった。
その時点で自ら絶命する、なんてことは出来るわけがなかった。
ろくに使いもせずに腐りきった脳からひり出される「何とかなる」というおめでたいポジティブさをここでも発揮し、病院に通い治療を続けた。
徐々に余裕はなくなっていった。
40歳。
病による痛みや苦しみなど体の不自由に、老いによる劣化が重なり、あっという間に彼はかつての日常を失った。
思うようにバイトもできず借金返済はおろか治療費も捻出できない。
あらゆる面で生活が困窮していきじわじわと死に蝕まれていった。
俺は彼が健康体の頃から、彼がどういう結末を迎えるのか見てみたかった。
到底楽しそうに見えないのに、自分に言い聞かせるように「今が楽しければ」と口にしている頃から。
当人はどうだったんだろうな。
後悔はしなかった気がする。
俺が望んでいたのはそれだったのだが、しなかっただろうな。
この手の人間は思考がそういったところに及ばずに、ただ自分の起こした行動の結果をあるがままに受け入れるだけなのかもしれない。
獣が死を迎えるように。
彼が死んだ時にそんなことを考え、初めてこいつを少しだけ羨ましいと思った。